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2021.07.14

大和時代に生まれ、歴史の変遷とともに姿を変えてきた「経木(きょうぎ)」のお話

皆さんは、「経木(きょうぎ)」を知っていますか?木を紙のように薄く削ってつくられる、日本伝統の包装資材です。お肉を包んだり、おにぎりを包んだり、経木はいつも暮らしの真ん中にありました。

しかし、融通の利く便利なプラスチック製品が普及するにつれて、次第に暮らしの中から姿を消していきました。その結果、大量に出たプラスチックゴミが生態系にまで影響を及ぼしています。私たちは、環境にも暮らしにも優しいこの経木をもう一度復活させたいと、生産に取り組みはじめました。(信州経木Shiki web:https://shinshukyougi.jp/

実はこの経木、食品包装として使われ始めたのは江戸時代からですが、そのルーツは古く、1000年以上も前の大和時代にあるとの記録が残っています。今日は、そんな謎に包まれた経木の歴史を辿ってみたいと思います。

紙の代用品として誕生した“経木”

経木のルーツは、お経を書くための紙の代用として生まれたと言われています。今から約1500年前、中国大陸から日本に仏教が伝わってきました。その当時、紙はとても貴重で手に入りにくい品でした。そのため、当時の人たちは紙ではなく、薄く加工をした木にお経を書いていたと言われています。経木という名前の由来はそこから来ており、「お経を書く木=経木」となったとのこと。ところが、その当時使われていた経木は、現在私たちが生産しているような薄い経木ではありませんでした。経木の原点は、「ヘギ板」というものです。

木をへいでいる様子。木曽谷にある栗山木工有限会社では、1000年以上続くこの”へぎ板”を今でも生産し続けています。※写真は、KISO KURASHi(https://kiso-life.jp/work/kuriyamamokko/)より引用。

木を薄くへいだ(割いた)経木は万能な素材でした。お経を書くだけでなく、屋根に使ったり、箱を作ったり、傘を編んだり。日本は古来、暮らしの道具のほとんどを木などの自然物から生み出していました。ヘギ板1つから、こんなにも色んな種類の物に姿を変えることが出来る。先人たちのクリエイティブ能力の高さを痛感します。

薄経木のルーツ、付木とは

では、今私たちが使っている経木(以下薄経木)は、どうやって生まれたのでしょうか?

包装材として使っている薄経木のルーツは、付木(つけぎ)と呼ばれるものから来ています。これは火を他の場所へ移すために使われる薄く削った木に硫黄を塗ったもので、江戸時代初期~中期ごろに生まれました。

料理をする上でも、暖をとる上でも欠かせない火。江戸時代に入り、世の中も安定しはじめると、様々な文化が発展していきます。その中で、かまどや七輪、囲炉裏や火鉢など、暮らしの様々なシーンで火が使われるようになりました。まだマッチなども発明されていなかったその当時、火を気軽に使いたいという世の中のニーズに対応した付け木が生まれたのです。

江戸時代の食べ物を包む文化

ではその当時、おにぎりなどの食べ物はどうやって包んでいたかというと、葉っぱや竹皮を使っていました。今でもその文化は各地域に残っており、木曽谷の郷土食であるホウノキの葉っぱでお餅を包んだ“ほう葉巻き”や“ほう葉寿司”、全国的に有名なものでいうと、カシワの葉っぱでお餅を包んだ“柏餅”などが、季節を楽しむ食べ物として多くの人に愛されています。

ほうの木の葉っぱに包まれている、ほう葉寿司

江戸時代中期に入ると、食べ物を包む竹皮のニーズがより一層高まっていきます。それに伴い、竹の皮を売り歩く商人が誕生。おにぎりだけでなく、お漬物やお寿司、お味噌やお菓子まで竹の皮で包まれるようになりました。

竹皮を使った、ちまき

しかし、江戸末期になると、竹皮不足に陥ります。理由は、竹の周期的な開花枯死。竹というのは不思議な生き物で、約60年に1度だけ花を咲かせ、そして枯れると言われています(※諸説あり)。江戸末期、一斉に竹の花が咲き、そして枯れてしまったことにより、深刻な竹皮不足に陥りました。

食べ物を包む経木の登場

この状況に、商機を見出した人がいます。当時、埼玉県で付木屋を営んでいた宮嶋勘左衛門という人です。アカマツを使った付木を生産していた宮嶋勘左衛門は、その付木を大きく削って竹皮の代用品を作ることを思いつき、生産に挑みます。サイズは2種類。大きいものだと幅15cm、長さは53cmにもなったそうです。しかし、この挑戦は前途多難な道のりとなりました。これだけ大きいと、従来付木の生産に使っていた機械は使えないため、薄経木専用の機械開発から行わないといけません。電気もガスも普及していない時代、宮嶋勘左衛門は必死に頭をひねりながら、約1年の月日をかけてようやく経木を生産する機械を開発。そして、「枇木(ひぎ)」という名前をつけて販売を開始しました。

しかし、包装用の経木の開発に約1年ほどかかってしまったので、なんと竹皮が復活してしまいます。そのため、なかなか枇木が売れません。困った宮嶋勘左衛門は、地方に着目。竹皮商人のいない地方では、自分で竹皮を拾ってきて下処理をする必要があったのですが、そのまま使えて、大きさも安定している枇木が重宝され、ニーズが拡大。その後、江戸や大阪など人口が多い地域でも広がりをみせていきます。

途絶えてしまった、経木の文化

宮嶋勘左衛門の血の滲む努力の末に誕生し、日々の暮らしの中で包装材として活躍していた薄経木。60代以上の方が経木を見ると、懐かしそうに昔話をしてくれます。江戸時代から昭和初期にかけて、脈々と人々の暮らしを支えてきた薄経木ですが、ある時からぱったりとその文化が途絶えています。それはなぜなのでしょうか。

戦後、高度経済成長に伴い「流通革命」というものが起こります。色んな産業がものすごいスピートで成長をするのに合わせて、商品が消費者の元に届くまでの流れの効率化も求められていきます。また、沢山の商品を一度に購入できるスーパーマーケットなどの大型店舗が日本全国に拡大。その結果、事前に包装された商品が販売されるようになりました。その包装には、融通が利いて大量に生産することのできるプラスチック製品が使われるように。その結果、経木は、私たちの暮らしから徐々に姿を消すこととなりました。

美味しさを引き立てる、名脇役

経木が使われなくなるにつれて、生産者の数も減りました。しかし、経木が良いとずっと使いつづけている人もいます。例えば、老舗の魚屋さん。刺身の下に敷いてあるキッチンペーパーなど、魚の余分な水分を吸収してくれる給水シートは、水気を吸いすぎるので身がパサパサになってしまいます。その点、経木は程よく水気を吸い取り、且つ松の抗菌作用があるので味も鮮度も保たれます。また、たい焼きなどの焼き菓子の包装にも使われ続けています。木が持つ調湿作用のおかげで、生地の蒸れを防ぎ、美味しく食べることができるからです。最近では、家庭の食卓でも使われるように。少しずつ、経木の魅力が再び広がっていることを、とても嬉しく思います。

おわりに 

今回この記事は、田中信清さんが1980年に執筆された「経木 ものと人間の文化史37」の本を参考にしました。裏話をすると、私たちが経木の生産を開始したというニュースをみた東京都で経木の卸売りを営んでいたとある方が、私たちに紹介してくださったのがきっかけで、この本に出会いました。

読み進めてみると、経木が生まれた背景や歴史と共に歩んできた変遷などが事細かに記されており、筆者の経木への愛情や、この筆者の経木文化が途絶え始めていることへの強い危機感、そして、なんとしても経木を後世に伝えていきたいという強い想いをひしひしと感じました。そして、その想いは色んな人に受け継がれていて、経木の卸売りを営んでいるまだお会いしたこともない男性のお陰で、私たちの元にもその想いが届きました。経木というのは本当に多く人に愛されてきたものなんだなと、読み進めながらしみじみとしてしまいました。日本人の叡智と想いが詰まった「経木」。この経木文化をもう一度広めるべく、私たちはこれからも生産を続けていきます。

参考文献:「経木 ものと人間の文化史37」 田中信清(法政大学出版)
参考記事:https://diamond.jp/articles/-/71380?page=2

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